羽衣369

思考の整理整頓、サクッとスピります

大人と小人

大半の人が一回は疑問に思うことシリーズだと思います

大人になるとは何なのか

ただ年齢を重ねれば大人になれるのか

自分を抑制して他人に合わせて生きることが大人のあり方なのか

やりたいことをやり言いたいことを言う人は小人か

 

「自我の意識は個人から集団、社会、宇宙と次第に進化する...」

宮沢賢治、農民芸術概論要綱の一節です

小人から大人への成長というのは、まさにこれだと思います

最初は一人よがりの小さい自分から、次第に共存を意識した大きな自分への進化です

もちろん、年齢を重ね身体が大きくなることも大人になるということですが

それは子どもから大人への成長です

人間は肉体と精神の二つで出来上がっているので、その両方がバランスよく大きくなって大人になります

我慢ができるの人が大人だとよく言われるのは、共存の意識が根本にあるときにはじめて成り立つのであって、絶対的な条件ではありません

人間一人では生きていないということを理解した上での我慢は、周りのことを考えられている大人だからできることです

 

しかし、やりたいことを我慢し諦めるというのは極力するべきではないです

人間の人生は一回限りで、しかも世の中には一回だけの人生では経験できないくらい多くのもので溢れかえっています

そんな中でさまざまものに挑戦してみるのも良し、一つのものを極めてみるのも良しです

肝心なのは自分の好奇心に素直に従い、行動することだと思います

確かに年を重ね社会に生きるようになると、さまざまな制約が生まれてしまいます

さらに世の中に蔓延る多種多様な暗黙の妖怪や、嫉妬深い人達が作り上げた常識みたいなものが、小さいときから縛り上げてくるので、できる人は限られてきます

しかし重ねた年齢と知識と知恵は無駄ではなく、それを駆使できるようになれる大人こそ、よっぽどやりたいことを効率よくできるわけです

 

なぜ好奇心に従い行動することが肝心だと思うのか

行動すればするほど、バラエティ豊富な経験ができますし

前に進もうとすればするほど、苦労もやってきます

この経験苦労こそ、宮沢賢治のいう自我の意識の広がりにつながると考えています

蛇の道は蛇で、経験と苦労を知っている人は思いやりの気持ちを持っています

誰かを思いやれるということは、その誰かと自分を重ね合わせて考えられるということです

それができたときその誰かは他人ではなく、自分になります

次第にそれは集団になり、社会になり、宇宙になり自分は大きくなります

宇宙は超越しすぎだとは思いますが、身近なところで言えば地球です

人間が大人になるということは、こういうことだと思います

同じ人間でも、長い時間生きていればその分多くの経験苦労をしているかもしれないし

まだ短い時間しか生きていないのであれば、それほどはしていないだろうなと思うかもしれません

年齢はそういったその人自身の大きさを判断する勝手な基準の一つに過ぎません

 

勘違いしてはいけないのが、好奇心に従って行動すること自体に目的を置きすぎないことです

そうなってしまっては、いつまでも地に足が付かず世捨て人にもなりかねません

目的の置き場は自分を大きくするということで、それは土台作りの一環です

しかしそんなことを言っても、「世の中の常識」主義の人たちが大半を占める社会においては未だ認められないものです

しかし彼らには彼らの世界があり、そこに込められている思想もあります

完全には理解できなくても知ろうとしなくてはいけません

批判するのは楽なことですが、楽して大人になれば痛い目を見るのは結局自分ですので

 

世界人類が平和でありますように

苦手のその先

 

僕は小さい頃からの筋金入りの三日坊主です

なんで三日坊主かと言いますと、自分でもよくわかりません

何かを続けるというクセを小さいときにつけ忘れてしまっていたのかもしれません

コツコツ精神は僕の苦手分野の一つです

苦手の正体を確かめようとするのも苦手です

でも、自分の持つ苦手意識というものを変えることができたら

一体自分はどうなるのかということを、なんとなく確かめたくなってきたのがここ一ヵ月の話

これは実はブログを続けてみている理由の一つでもございます

いつまでやったら勝ちと決めてしまっては目的から逸れてしまうのでしませんが、

やり続けることによりコツコツ精神が養われていけたらなあと思う次第です

 

人間一つは持ち合わせている(であろう)苦手なもの、苦手意識

苦手の壁にぶち当たったとき、自分はどうしているか

乗り越えようとする場合と他の道を探そうとする場合があると思います

そのどちらを選ぶかは壁の高さだったり、分厚さだったり、または外からの要因だったりにも左右されます

どちらを選んだとしても道は道

その後のことは自分次第で変わってくるので、どちらの場合も間違いはありません

今の自分には高すぎる壁であったり、乗り越えるのに乗り気でなかったりするときは素直に受け入れ他の道を探しますが

なるべく乗り越えようとすることが大切だと考えています

自分が持つ苦手分野は、克服すれば得意分野になり得るものとしても捉えることもできますが、

本質的には自信に直結します

自信が付く、これが重要

自信がある人は少なからず前向きであり、前向き前進であることは人間の常であると思うからです

これが僕が思う苦手意識を克服することの大切さです

自信が付いて得することはあっても、損することはないし

あったところで悩もうとするのはくだらない人間関係くらいです

 

自信を付けようと思ったら、嫌でも自分の苦手に立ち向かい乗り越える努力ができたら良いかなあと思います

そしてそれが困難であればあるほど、勝手についてくる自信は大きくなります

しかし自信が過信に変わり、我がままになってしまうのはよろしくないと思います

ままとは変えないことなので、我を変えないということは人間の本来の形からずれてしまうからです

他人がいて自分がいるし、自分がいて他人がいる

ぶっこわれた現代の〇〇思想に憑りつかれた人々が鼻で笑うようなセリフですが、これが本来の形であると思います

また、自信がある人と我がままな人の違いはここにあります

他人も信じられる人と、自分しか信じられない人の違いです

他人を嘲笑ったり、馬鹿にする行為は自信のなさの裏返しだと思います

大抵同じような仲間を探し賛同を求めては、小さな自分を大きく見せようとしています

 

もちろん全ての苦手の壁を乗り越えるというのは疲れてしまいます

ときには他の道を探し、次の壁にぶち当たってしまったときのために体力を温存することも重要だと思います

 

 

しかし、立ちすくんだり逃げ去ったりする行為はあまりよろしくありません

立ちすくむことは停滞であり、逃げることは後退であるからです

僕は人間としてクラシカルに生きたいと望みます

世界人類が平和でありますように

神様の所在地、チルタイムの戯言

 

あくまでも僕の見解です

 

人間は意識があるときと、無意識なときの二つで生きています

まずは意識があるとき

今日は何をしようとか、夕暮れを見計らってあそこでチルしようとか、そのあとは美味しいもの食べようとか

あれになりたいとか、あれが欲しいとか、これがやりたいとか

自分の意思が働いているとき、頭を使っているとき

働いているときなどは、意識がありながらも無意識が適度に休ませていたりするので

その両方です

意識があるときというのは、心ここに在る状態

 

無意識なときというのは、心がここに在るとき以外

心ここに在らず、といったら語弊がありますが、まさにその状態

とっさに出た行動とか、ふとした瞬間の前とか、まあ散歩しているときだって無意識かもしれません

一日の、もっと言えば人生の大半をこの状態で過ごしていると思われます

でも無意識だからと言って何もやっていないかというと、そういうわけでもありません

特に何も考えてないけど無意識というのは何かやってます

特に何も考えてないけど何かを見て、聞いて、思考してます

例えば目を閉じているときは何も見えてないのではなく、まぶたの裏を見ています

このようなとき、心ここに在らず状態のときに神様は在られます

 

つまり大きく言っちゃえば(これもかなり誤解を生みそうですが)、神様の住所は自分の中の無意識の住所と同じになります

小さく言えば、意識と深く関わる無意識の中におはしますと思われます

自分の思考の元を思考してみたときに、無意識なときの思考が関係してくるんじゃないかという憶測です

無意識なときの思考や言動と、

意識があるときの思考や言動は表裏一体だと

二つで一つだと

表裏一体であるということはまた、意識が無意識にも働きかけてきてしまうわけでございます

だから悪い事を企む人間は無意識の部分でも悪くなってしまい

逆に善い事を心がける人間は無意識の部分でも良い人間になるという

当たり前の構図です

意識的にとる思考や言動は、無意識に落とし込めるということです

 

ではなぜ無意識が神様であるという意向か

ロマンチックに言うならば

無意識というのは意識的に変えられることはできても、見ることはできないからです

無意識を見ようとするということは意識的になるということだと思うからです

正体がわからないものはロマンがあります

スピって言うならば

無意識は全ての力の源だからです

 

何かを手に入れたいとき、それを手に入れることができるのは

ふとしたときだと思います

だから日々の思考や言動を意識的に手に入れたいものに向けることが、

大半の時間を無意識で過ごす人間にとって大切だと思うわけです

 

心ここに在る状態は心ここに在らずの状態を作り、またその二つは表裏一体で

心ここに在らず状態こそ願望成就の力の源に繋がってくるのではないかという戯言でした

世界人類が平和でありますように

 

 

 

 

 

 

 

無くすべき依存心と常識の真実、ただのメモ

 

誰かに頼る依存心

誰かからの、自分以外の何かからのモノに頼る依存心

真実は自分だけの中にあるものであって、見つけるものでもなければ教えてもらうものでもない

生きている中で気づいていくものだけが真実

何もしていなくても気づこうとすれば気づけるのも真実

人の数だけ違った人生があるってことは、人の数だけ真実があるってことなのに

真実ってのは道具、豊富にあって損することはない

変わっていくものの真実は常に微妙に変化していき、変わらないものの真実は常に一つ

コ〇ンくんの言う真実は、すでに起きた事件という変わらないものに対する真実

だからいつも一つ

 

常識は常識ではない

世の中に蔓延る常識というものは膨れ上がりすぎていて、不安だから長いものに巻かれたくはなるが

デカいものに媚びるな

人海戦術で攻め込んでくる常識ってやつには負ける必要はない

まさに多勢に無勢、まさにダセーしウゼー

皮肉たっぷりに「若いねぇ」と言い放つ末人

そんな大人が増えてしまったら世も末

水は高い方から低い方へ流れていく

だから大人が変わらない限り、子どもは変わらない

子どもが変わらなければ、未来の世も変わらない

 

何かに媚びる必要もなければ、誰かになろうとする必要もない

自分は自分であって最高傑作

そこを間違えていた過去の自分

常に目標とする誰かを見据え、自分をそれに持っていくのは愚かな行為

誰かになろうとするのも依存心

尊敬する人の尊敬する部分だけを取り込んで、なりたい自分になっていくだけ

やっぱりバランスなんだと気付く今日この頃

自分に自信を持って胸を張る

 

自身を持てた人の可能性は無限大

その可能性を作るのは想像力

人の想像できる範囲は可能性の範囲

そして想像力は外に出ないと養えない

外に出ていろんな人やモノと接することで養われていく

何もしないでするのは妄想と一緒

亡き女を想う行為は、過去にすがり耽る行為であり何も意味がない

ただのストーカー

 

だからといって自分だけを信じて、自分と違う他人を否定するのは違う

なぜなら今周りにいる他人こそが自分であって、想像力であるから

その可能性の塊を、自分と違うからという理由だけで否定するのは

可能性を捨てていることと一緒

 

まあそういうわけにもいかないのが人間としての僕

嫌いな奴は嫌いで仕方ない、そりゃそういうこともある

だったら見なければいいだけの話

自分のことを嫌いになるやつからも好かれようとするのは時間の無駄

でも、そんなやつにも必ず良いところはあるってのは僕の真実

だから良いところが見えるまで待つ

待って待って、時には話しかけて

それで良いところを見つけられたのならラッキー程度に考える

 

これからも常に変化していくであろう僕の真実は、依存心と常識を切り捨てひたすらに自分を信じるという事

現時点でのメモ

世の中は常に変化するものであり

世の中と自分は常に表裏一体であるからにして

世界人類が平和でありますように

 

自分の内側と外側 後半

 

ポジティブでいたいときには、これを利用すればいいと思います 

内側をポジティブで埋めるか、外側にポジティブを置くだけです

やり方は、好きなようにやればいいと思います

好きな音楽を聴いてみたり、好きな人と一緒に居てみたり、好きな場所で好きなことをしてみたり

気分転換ですね

外側に焦点を当てたやり方です

内側に焦点を当てたやり方なら、一番手っ取り早いのはやはり

実感できる今を五感フル活用で楽しんでみる

これに尽きると思います

実感がなにより大切で、なにごとの根本にもなれると考えているわけです

いつでも、奇しき今を意識するだけです

過去のこと、未来のこと、自分の置かれている立場など

自分を確立している(ように見せかけている)ものを、全て取っ払い

一人の人間としてだけの自分が今ここにいる、ということだけを考えちゃうのです

「I am.」ですね

社会的または家庭的なステータス、経験は

自分を作り上げているように暗示かけてきますが

これはとんだ誤解で、これらがそうさせているのは

漠然とした不安を解消したいから、というのが一番の理由だと

ある哲学者も言っているはずです

これが自分だ!というものがなければ不安になってしまうのだと思います

自分なんてあってないようなものですね

逸れましたが、この「I am.」は万能薬みたいなもので、何に対しても使えてしまうわけでございます

それもここではない別の機会に話したいと思います

 

しかしここでもやっぱり、バランスが重要になってくると思います

ポジティブばかりなポジティブバカは、

ネガティブな時に得られるはずのものを得られない

というより得たくもないと考えてしまうと

元ポジティブバカは思うわけです

楽しいのと楽することは必ずしも同じではないです

 

ネガティブになることがなぜ重要か

ネガティブになることでしか得られない感情や思考は

人間の深みになり、深みがない人間はただの能天気で終わってしまう、と思うからです

ではなぜ深みが重要かといいますと、

これはもう、この世に生まれてきた意味にも繋がってきてしまうとも考えています

僕の大好物な世界になってしまうので、ここでは控えます

とりあえず一面白の画用紙に白いインクを垂らしても、

そのインクが活きないのと同じことだと思います

 

物事の二面性を知るということは、とてつもなく重要だと思います

片方だけに寄ってはいけない

片方だけをいくら知っていても、そんな自分に酔ってはいけないと思います

知ったかぶるなと思われるかもしれませんが、

知ろうとする姿勢が大切だと思います

 

だいぶ飛びましたが、内側と外側も自分の持つ二面性です

内側はもちろんそうですが、外側も自分なわけです

外側も自分なわけです?

そう思わなくても、そう思った方が良い事もあります

なぜならそう思うことによって、人に親切になれるからです

自分の外側も自分の一部だと考えれば

だったら大切にしてやろうと思えるわけです

 

実はこれ、ほとんどの人が無意識にやれていることだと思います

それはそれで十分に良いと思うのです

むしろ知らぬが花だと言う意見の人もいるかもしれません

しかし、これを知っている人と知らない人では、

やはり少しではありますが、違いが出てくると僕は思います

バランス感覚はしっかりとして重要です

以上、自分の内側と外側について思うことでした

世界人類が平和でありますように

自分の内側と外側 前半

 

自分の内側と外側は際どいところで繋がっていると思います

内側とは精神、心、意識、気持ちがあるところで

外側とは見えて聞こえて感じる世界のことです

 

今日も今日とてしょっぱなから飛んで、飛ばしていきます

サクッといきます

 

僕はよく悩みがなさそうだとか、楽観的だとか、そんな意味のわからない言葉を良くもらいます

しかし実際は何に対してか分からない焦りにも似た、負の感情に支配されることがよくあります

ほとんどの人がこの感情を経験していると思いますが

僕の場合はそいつが今までも、たぶんこれからもずっと付きまとって

最終的にはこいつと一生を添い遂げることになるような気さえします

そして、そういった負の感情に支配されているときは、なぜだか悪いことが続きます

これもほとんどの人が実感していることだと思います

 

話を戻します、自分の内側と外側について

まずは外側から内側への影響

これは実際に体感していると思います

例えば、自分の良い噂を聞けば、素直にうれしい気持ちになり

悪い噂を聞けば落ち込み、時には怒りが湧いてきます

単純なことです

しかしこの外側と内側の関係も、もれなく表裏一体となっていて

内側で起きたことも外側に影響します

外側から内側が分かりやすすぎて、逆がおざなりになってしまいがちだと思います

 

僕はこの2週間ちょい、バッドに突入していました

精神的にかなり気落ちしていました

書いていくと長くなってしまいますが、たぶん職を失い手持ちのお金も少なかったことに焦ってしまったことが皮切りになりました

それ以降、外側でも意味わからないことが立て続けに起こりました

中でも一番落ち込んだのは、買ったばかりの米10kgを盗まれたことでした

今ではもう笑えますが、その時は節約していこうと決心した直後ということもあり

本当に笑えませんでした

食の恨みというのは、やはりとてつもないということです

 

ネガティブなときは全ての事をネガティブに考えてしまうから、というのももちろんあります

しかしそれだけではどうも説明がつかない、腑に落ちない不可解というものがあります

これはやはり、内側と外側が際どいところで繋がっているから

ということになってきます

自分の内側の悪い感情が、外側に反映されてしまっている

それだけの話です

 

後半へ続く

 

奇しき今、感じたままに

肩の力を抜く

何も考えず、思った事をそのまま文章にしてみる

何も考え付かないときは僕が今何をしているのかを書いてみる

姿勢を正して深呼吸、吸う息と吐く息は同じものの違う側面

吐く息に集中する

人は生まれたときには産声をあげ(阿)

死ぬときには息を引き取る(吽)

つまり呼吸は本来、吸って吐くのではなく、吐いてから吸う

 

息抜きは人が持つ一機能美

ハッと息を呑み、ホッと出る溜め息

心が凪ぐとき吐く息、溜息は心の緊張を和らげたい無意識

器用に使いこなすバランス感覚

失えば崩れるプラスマイナス

静と動、陰と陽、吐いて吸うコントロールが大事

ボクサーがパンチを打つときに吐く息もそういうこと?

吸ってばっかで淀み濁り、変化できなくなったのがいわゆる老害

 

吐くことで吸えるものに本来の価値を見据える

だから思考を文字にしてみる

誰かが言ってた形式知暗黙知

どちらの価値がでかいかって一目瞭然

 

肩の力抜いても頭かた苦しい人も当然

誰かに合わせて呼吸する必要はない

程よく、何事もバランスを意識

 

ってこれができればどうってことないのにね

あ、世界人類が平和でありますように