神様の所在地、チルタイムの戯言
あくまでも僕の見解です
人間は意識があるときと、無意識なときの二つで生きています
まずは意識があるとき
今日は何をしようとか、夕暮れを見計らってあそこでチルしようとか、そのあとは美味しいもの食べようとか
あれになりたいとか、あれが欲しいとか、これがやりたいとか
自分の意思が働いているとき、頭を使っているとき
働いているときなどは、意識がありながらも無意識が適度に休ませていたりするので
その両方です
意識があるときというのは、心ここに在る状態
無意識なときというのは、心がここに在るとき以外
心ここに在らず、といったら語弊がありますが、まさにその状態
とっさに出た行動とか、ふとした瞬間の前とか、まあ散歩しているときだって無意識かもしれません
一日の、もっと言えば人生の大半をこの状態で過ごしていると思われます
でも無意識だからと言って何もやっていないかというと、そういうわけでもありません
特に何も考えてないけど無意識というのは何かやってます
特に何も考えてないけど何かを見て、聞いて、思考してます
例えば目を閉じているときは何も見えてないのではなく、まぶたの裏を見ています
このようなとき、心ここに在らず状態のときに神様は在られます
つまり大きく言っちゃえば(これもかなり誤解を生みそうですが)、神様の住所は自分の中の無意識の住所と同じになります
小さく言えば、意識と深く関わる無意識の中におはしますと思われます
自分の思考の元を思考してみたときに、無意識なときの思考が関係してくるんじゃないかという憶測です
無意識なときの思考や言動と、
意識があるときの思考や言動は表裏一体だと
二つで一つだと
表裏一体であるということはまた、意識が無意識にも働きかけてきてしまうわけでございます
だから悪い事を企む人間は無意識の部分でも悪くなってしまい
逆に善い事を心がける人間は無意識の部分でも良い人間になるという
当たり前の構図です
意識的にとる思考や言動は、無意識に落とし込めるということです
ではなぜ無意識が神様であるという意向か
ロマンチックに言うならば
無意識というのは意識的に変えられることはできても、見ることはできないからです
無意識を見ようとするということは意識的になるということだと思うからです
正体がわからないものはロマンがあります
スピって言うならば
無意識は全ての力の源だからです
何かを手に入れたいとき、それを手に入れることができるのは
ふとしたときだと思います
だから日々の思考や言動を意識的に手に入れたいものに向けることが、
大半の時間を無意識で過ごす人間にとって大切だと思うわけです
心ここに在る状態は心ここに在らずの状態を作り、またその二つは表裏一体で
心ここに在らず状態こそ願望成就の力の源に繋がってくるのではないかという戯言でした